季節はあっという間にクリスマスを終えて、年末に向けて忙しくなっていた。
もう少しで、今年の業務も終わりを迎える頃合いだが、全くそんな気がしない。
今年が終わるっていう気もしなければ、新しい年を迎えると言った気もしない。
何だか不思議な感じがする。
そんなことを思いながら業務をしていると、目の前にある女性がやってきた。
見え隠れしている袖から腕に何か書かれているのを見かけた。
最初は何かケガをした後なのかと思っていたけど、それは違うようだ。
何か文字が書かれていて、よく見ると11時本棚整理と書かれているのが見えた。
メモする際、近くに紙とかなかったのだろうか?
「あの20万円融資していただきたいのですが」
「はい、かしこまりました」
そう言って、書類を受け取り色々確認していく。
名前は“野村マキ”さんというらしく、職業は図書館司書となっていた。
図書館で働く人って、何だか真面目な人が多いようなイメージだ。
人を外見で判断するのは良くないが、どうしてもそんなふうに思ってしまう。
この仕事を始めてからずいぶん経つが、融資してもらった金で何をするのか興味を持ったことが無かった。
しかし、最近になってからその使い道に興味を持ち始めるようになった。
こんなの悪趣味だし大きなお世話かもしれないが、気になってしまう。
野村さんは図書館司書と言うのもあり、使い道に興味がある。
「黒羽根さんっていうんですね」
「はい、よく珍しい名前だと言われます」
俺がそう言うと、野村さんは笑った。
黒羽根なんて苗字、珍しいから色々な人に覚えられる。
すると、野村さんが腕まくりして腕を確認し始めた
その腕には、たくさんのことが書かれていて、まるで耳なし芳一のようになっている。
確か、あの登場人物も耳以外にお経を書いていたという話だ。
まさかとは思うが、油性マジックじゃないよな・・・?
「すぐ落ちちゃうから、油性マジックで書いているんですけど・・・。
用事が終わってから消すと、すごいんですよね、痛くて」
そりゃあ、痛いに決まっている!
すぐに落ちてしまうから油性マジックで書くのなら、その逆で落ちにくいという事。
そのことは浮かばなかったのか気になる。
腕が赤くなっていて、それがまた少し痛々しかった。
せめて水性マジックで書いてくれればいいのにな・・・。
だけど、今は冬で長袖を着ているからいいけれど、夏は半袖だから書き記しが見えてしまうんじゃないのかな。
野村さんは気にしていないという事なんだろうか?
「それでは、これで失礼します」
野村さんは融資額を確認して、そのまま銀行から出て行ってしまった。
それにしてもすごかったな・・・あの左腕。
ああしてしまう癖なのか、それとも言われたことをすぐに忘れてしまうのだろうか。
たまにならいいかもしれないが、あれが毎日となると皮膚が傷んでしまいそうだ。
どうにかして辞めさせてあげたいが、俺に何が出来るだろうか。
そう思いながら、仕事を進めていく。
日にちが少し経って、再び野村さんがやってきた。
あれ、この間も来たばかりじゃなかったっけ?
すぐさま俺のところへ来て、先日の10万円を一括返済しにやってきた。
これはまたずいぶんと早い返済だ。
延滞されてしまうよりは全然いいのだが、正直驚いた。
もう少しだけ時間をかけても良かったのに。
「黒羽根さん、こちら返済します」
「確認致しますので、少々お待ち下さいませ」
そう言って、札を数えてくれる機械へ入れて何度か確認する。
ピッタリ10万円あることを確認し、そのことを野村さんに伝える。
一体何に使ったのか分からないが、返済が早いという事は、大きな目的で借りたわけではなさそうだ。
俺が黙っていると、野村さんが笑みを浮かべた。
何か嬉しいことでもあったのだろうか。
実は先程からずっと、ずっと気になっていることがある。
それは、左頬に書かれた“14時本棚整理”という文字。
頬に書く人なんて初めて見たし、これで外を出歩くなんてすごいと思った。
「あの、14時から本棚整理はされたんですか?」
「・・・・っ!?」
次の瞬間、野村さんが次第にしょんぼりし始めた。
忘れていたんだな・・・?
そりゃあ、自分の目が届かない場所だから忘れるのも無理はない。
そもそも、どうして頬になんて書いてしまったのだろうか。
見えない場所だし、頭で覚えればいいことのような気もするが・・・。
メモをしないと落ち着かないのだろうか。
よくみると、それはまた油性マジックで書かれていた。
「野村さん、メモをするのは構わないと思いますが、油性マジックはやめた方が。
洗い流す時に大変ですし、せめて水性マジックにしておきませんか?」
「水性マジック・・・」
「あとは、頬ではなくて左腕だけとかにしてみませんか?
自分の目に見えない部分に書いても、あまり意味がないと思いますので」
「わかりました、水性マジックで腕だけに書きます!」
何やら意気込んでいる野村さん。
うーん、なんとなく違うような気もするけどやる気になってくれているのはいいことか?
油性マジックから水性マジックに変えてくれるだけでも、大きな成長だと俺は思う。
野村さんは、水性マジックを手にして早速腕に書き始めた。
なんだ・・・“晩御飯はトンカツ”?
そんなことも、すぐに忘れてしまうのかっ?!
晩御飯に何を作るのかくらい、覚えていそうなものだけど。
そう言って、野村さんは銀行から去ってしまった。
次に会う事は恐らくないんだろうな・・・もう返済をしてもらっているし。
それにしても、本当に不思議な人だったな・・・。
業務を終えて、俺はそのまま家に帰ることにした。
後日、俺は本を借りに行くことにした。
少しマナーについて学ぼうかと思って、俺も接客業だと思うから。
言葉遣いとかもう少し学んだ方がいいかと思って、図書館へ向かった。
年末年始だと言うのに、近くの国立図書館は28日まで開館しているから驚いた。
結構ぎりぎりまで開いているもんなんだな・・・。
図書館の中はガラガラで、人がほとんどいなかった。
まるで、俺が貸し切っているみたいに人の姿が一人二人しか見えない。
俺は、マナーの本を探して何冊か手にした。
それから新刊コーナーを覗き、いつもより本があることに気が付いた。
この図書館には度々足を運んでいる。
「あれ、黒羽根さんではありませんか?」
急に声がして目の前を見ると、野村さんが座っていた。
図書館で働いているって、この図書館だったのか!
全く知らなかった・・・俺が知らないうちに、会っていた可能性もあるのか?
俺が持ってきた本を見て笑っていた。
何だ、意外だとでも言いたいのだろうか?
それでも、笑った表情が可愛らしくて怒る気なんかなかった。
「ここで働かれていたんですね。
年末年始なのに、大変ですね」
「いえ、働くこと以外にすることなんてありませんから」
ふと腕を見ると、また色々書かれていた。
見るからに水性マジックで、俺は少し安心した。
油性マジックだったらどうしようかと思ったぞ・・・よかったよかった。
でも、どうしてそんなにメモをしているのか、やっぱり気になる。
だが、聞くのは失礼なことかもしれない。
そんな俺を見て、野村さんが口を開いた。
「私がメモをするようになったのは、以前事故に遭ってしまったからなんです。
頭部を強く打ってしまって、それから記憶力が悪くなってしまって。
だからメモをしないと覚えていられないんです」
全く予想していなかった答えに、俺はただただ驚くことしかできなかった。
そうか・・・事故に遭ってしまったからだったのか・・・。
忘れないようにすぐ確認できる方法があればいいんだけど・・・。
だけど、そんな簡単には思いつかないから腕に書いたりしているんだよな?
その時、テーブルに置かれている大量の付箋が目に入った。
付箋・・・いつでも取り外し可能・・・そうか!
俺は付箋を手にした。
「付箋に何をするのか作業を書いて、テーブルに貼ればいいんですよ!
時間帯は別の付箋に書いておいて、言われたらやることを書いた付箋の上に貼ればいいんです。
それなら何度も書き直す必要が無くていいと思いませんか?」
「確かに・・・それ、いいですね!
早速今から試してみます!」
そう言って、野村さんがマジックで付箋にキュッキュ書いていく。
これなら職場だけではなくて、家でも無理なくできていいんじゃないかと思う。
家だったら、冷蔵庫に貼るとかテーブルに貼るのもいいだろうし。
別に無理して記憶する必要なんかないんだ。
自分のペースで記憶していけばいいだけだから、引け目を感じる必要もない。
アドバイスをして、俺は邪魔してはいけないと思いそのまま帰ることにした。
付箋の事をアドバイスしてから何か変わってきただろうか?
我ながらいいアイデアだと思うのだけれど・・・野村さん、窮屈に感じたりしていないだろうか?
慣れるまでは、どうしても腕に書いたりしてしまうと思う。
様子を見に行こうかと思ったが、何だか邪魔になってしまいそうで行くに行けなかった。
ただ、野村さんの事だから頑張ってくれているんじゃないかと思うんだ。
記憶力が衰えないように、とか言いながら毎日付箋にメモをしているんじゃないかって。
家でじっとしているのは性に合わなくて、俺はあの図書館へと向かった。
借りた本をちゃんと手にして。
図書館まではそう遠くはないからすぐについてしまった。
相変わらず人は少なくて、貸し切りのような状態だった。
借りた本を返さなければと思い、俺は受付まで向かった。
そこには野村さんが座って本を読んでいた。
こうしてみていると普通の女性なのに、本当話したりすることによって印象が大きく変わってくるものなんだなと思った。
「あら、黒羽根さん、本を返却しに来てくださったんですか?」
「時間があったからきてしまったんです。
あれからどうですか?」
「付箋作戦、効果絶大ですよ!
ほら、もう体のどこにもメモなんてしていません!」
まるで小さな子供のように、腕を見せてくる。
本人が一番嬉しそうで、俺も嬉しくなった。
誰かが笑う表情って、それだけで心が温かくなって嬉しいモノなんだな・・・。
笑う事が大事だと聞いたことがあるけど、それは本当だったんだ。
俺はただ業務をこなすことだけを考えて、今まで仕事をしていた。
だけど、やっぱりそれだけじゃダメだったんだ。
「記憶力が悪いはずなのに、黒羽根さんの事だけは覚えていました。
珍しい苗字だからじゃなくて、ちゃんと覚えていたんですよ」
「それは嬉しい限りです、ありがとうございます」
どうして野村さんが俺の名前だけを覚えていたのかについては知らない。
ただ、彼女にとって俺が大きな存在になっていたのか、それともたくさん話したからなのか。
俺の名前を覚えてくれている事は、素直に嬉しく思う。
野村さんがその後どうなったのか。
実は、優秀な医師と出会って少しずつ記憶力の回復をリハビリしている様子。
記憶力が低下してしまわぬよう、毎日リハビリをしては活性化させているらしい。
だけど、俺は何も知らなかったんだ。
こうして知り合うまで、あの図書館でいつも野村さんが俺を見ていたことを。
知るのは、あと3年後の話。