今日は日曜日で、俺は買い物をするために外出していた。
もう秋もすっかり過ぎて少しずつ冬の街並みに変わってきている。
これから少しずつ冬の景色へと変化していくのかと思うと、少し憂鬱になった。
冬はすぐに日が暮れてしまうし寒いから憂鬱になってしまう。
夏だったら何とかなるんだけどな・・・冬はどうしても気が滅入ってしまう。
そんなことを考えながら歩いていると、ある人に声をかけられた。
なんだ、キャッチとかだったら追い返そうかな。
「あの、サインいただけませんか?」
「え?」
振り向くと、そこにはまだ大学生くらいの男性が立っていた。
にこにこしながら俺に言う。
今、俺にサインくれって言わなかったか?
それとも聞き間違いか?
俺が固まって黙り込んでいると、男性が再び同じことを言って紙とペンを差し出してきた。
「サインって、俺有名人とかじゃないんだけど・・・」
「そんなの関係ないですよ!
あなたのサインが欲しいんで、お願いしますよ~!」
そんなことを言われても困ってしまう。
俺のサインが欲しいなんて・・・変な人だな。
そんなものをもらって一体どうするつもりなんだろうか?
まさか、個人情報を得るとか・・・いやここから個人情報を得るのは難しい。
ぐいぐい押されるものだから、とうとう俺もサインをしてしまった。
どうせサインをしたって、翌日にはゴミ箱行きなんだろうな。
「ありがとうございまーす!
やった、これでもうすぐ千人行くぞ~!」
何だって・・・?!
千人もの人達がこの人にサインをしたのか?
また、俺にしたかのように強引に進めたりしていたんだろうな。
サインを手に入れた彼は満足げに、その場を去って行ってしまった。
何かに悪用されたりしないか心配だな・・・。
本名をばっちり書いたわけではないから、悪用されても大丈夫だろうな。
それにしても、変わった人物だったな・・・。
再び月曜日から業務に戻るが、あのサインのことが気になってしまって仕事に身が入らない。
あれからあの人は何をしているんだろうか。
また、あの場所で誰かのサインを求めているのだろうか?
いきなり来るものだから、断るに断れなかった。
さて、今日も融資の話を進めて行かないといけないな!
番号札を確認しながら、次々とさばいていく。
“158番の番号札をお持ちの方は、3番窓口までお越し下さい”
そうアナウンスを流すと、窓口にある人物がやってきた。
「あれ、あなたはあの時オレにサインくれた人じゃないか!
まさか再会できるなんて、すごく嬉しいですよ!」
「こちらこそ、驚きました」
この窓口に来たという事は、融資をしてもらいたいという事なんだろうか。
話を聞いていると、20万円融資してほしいとの事だった。
俺はすぐに情報などを確認して、課長の承認を取りに行く。
彼の名前は“橋本ナオ”さんというらしい。
何だか女性のような名前だが・・・男であっているよな?
信用情報を確認すると、今回が初めての融資だという事らしく審査に少々時間がかかってしまう。
だが、安定した収入もあるし他社からの借入も無いから問題はなさそうだ。
金融事故者でもないし、しっかりしている人だと思えるから個人的にはいいと思う。
融資課長に相談をしたところ、融資をしても大丈夫だと承諾してくれたから、俺は現金を用意して、窓口へと戻った。
「お待たせいたしました。
こちら20万円になりますので、ご確認下さいませ」
「ありがとうございます!
良かった・・・初めてだから緊張しちゃって」
「確かに初めての方ですと、緊張してしまいますよね。
返済は毎月5日になりますので、お気を付け下さいませ」
「ありがとうございます。
黒羽根さんが担当者で本当に助かりました」
橋本さんがホッとして笑いながら言う。
誰だって初めての事には戸惑ってしまうし、分からない事や緊張もしてしまう。
だからこそ、俺たち担当者がしっかり誘導してあげなければいけない。
少しでもその人の力になれるように、相談に乗ったり質問に答えてあげることが大事なんだ。
橋本さんってこう見ると普通の人なのに、休みの日はあんなふうに他人のサインを集めているのが不思議だ。
「実は今回初めて融資してもらったのは、他人と関わりを深めるためなんですよ。
ほら、黒羽根さんにも先日サインをいただいたでしょう?
他人のサインをもらっているのは、どんなサインをするのかコレクターしているのもあるんですよ」
「私のサインは大したことないですよ」
「そんなことないですよ。
黒羽根さんのサインだって、貴重なサインの一つなんです。
決して無駄なサインなんてないんです、性格が出るものですからね」
なるほど・・・そんな風に思いながら集めているのか。
他人との関わりを大事にしている人なんだな・・・。
俺はそういったことは以前までうっとうしいとばかり思っていたが、そういうことを大事にしている人もいるんだ。
結構知らない事ってあるんだな・・・まだまだ知ることが沢山あるんだな。
他人とのかかわりを大事にするために、今回の融資を考えたと思うと尊敬してしまう。
それと同時に、そういった目的で使う人がいることに驚いた。
「黒羽根さんには特別にお見せしましょうか?」
「よろしいんですか?」
「これも何かの縁ですから、どうぞどうぞ!」
そう言って、橋本さんがサイン帳を見せてくれた。
それは多くの人達のサインが書かれていて、何だか不思議だった。
有名人じゃないのに、様になっているからまたすごいと思うんだよな。
その中にはいくつか気になるサインもあって、思わず見入ってしまった。
このサインって・・・そこには可愛らしいサインが書かれていた。
しかも、周りにはお菓子の絵が描かれている。
間違いない、このサインは後藤さんのサインだ。
彼女も橋本さんに頼まれて、サインをしたのかもしれないがこんな偶然あるんだな・・・。
「何か決まり事とかあるんですか?
こういった人にサインをお願いしているとか」
「いえ、特に決まりはないんです。
ただ、サインを書いてほしいなと思った人に頼んでいます」
そうだったのか・・・誰でもいいのかと思いきや、そこはしっかり選んでいるようだ。
話を聞いていると、サインを書いてくれた人たちとは偶然出会うことがあるのだとか。
現に俺もこうして橋本さんと再会することが出来ているし。
もしかしたら、何か縁がつながっているのかもしれないな。
色々話しているうちに、15時を回ってしまった。
橋本さんが帰っていくのを見送り、俺は閉店準備をしていく。
閉店といっても窓口を閉めるだけで、就業ではない。
さて、書類整理でも始めるか!
あれから橋本さんが銀行に来る事は無かった。
サインを集めることで忙しいのだろうか・・・サインはたまったかな?
また機会があれば、あのサイン帳を見せてもらいたいものだ。
そう思いながら、俺は今日の仕事も適度に頑張ってこなしていく。
最近、仕事の仕方が変わってきたような気がする。
以前までは与えられた仕事をただこなしているだけだったが、色々な人と接することによって俺も少しずつ変わってきたのかもしれないな。
今まで成長なんて簡単には出来ないとばかり思っていたが、それは間違いだったんだな。
「黒羽根さん、あの橋本さんという方からお電話なのですが」
「わかった、今代わるよ」
そう言って、俺は電話の方へと向かった。
橋本さんから電話って何かあったのだろうか・・・もしかして返済についてとか。
とりあえず、俺はその電話に出てみることにした。
電話に出ると橋本さんが慌ただしい声色で話し始めた。
それは文章がめちゃくちゃで単語がばらばらに並べられた言葉だった。
とにかくひとまず落ち着いてもらって、話をしてもらう事に。
『黒羽根さん、聞いて驚かないで下さいね・・・?
実は、あのギネスブックにオレのサイン帳が登録されることになったんですよ!』
「マジですか?!」
あのサイン帳がいよいよギネスブックに登録されることになったなんて・・・。
ギネス記録って変な記録が多いのが特徴だが、まさか橋本さんのサイン帳が認定されるとはな・・・人生何が起きるのかわからないもんだよな・・・。
20万円融資したあの金額は、日本各地を移動するための交通費として使ったらしい。
そう言えば、お菓子が好きだと話していたあの子も、交通費として使っていた。
交通費として融資を希望する人も、結構いるのかもしれなな。
「おめでとうございます!
今までの頑張りが実ったんですね」
『黒羽根さんのおかげですよ!
だって、黒羽根さんにサインしてもらってから調子がいいんですから。
ありがとうございます、本当に!』
俺がサインしたからっていうのは、何だか違うような気がする。
今回は、橋本さんの実力なんじゃないかと俺は思うんだが。
俺は偶然にもサインをしただけであって、何もしていない。
感謝されて嬉しいような気もするが、複雑な感じだ。
業務中だから一度電話を切ることにしたが、本当に喜ばしいことだ。
ギネスは色々な国の人達が見るから、きっと世界にその名前が知れ渡るだろう。
世界に自分の名が知れ渡るのは、一体どんな気持ちなんだろうか?
やっぱり最初は恥ずかしいと思うのか、それとも素直に嬉しいと思うのか。
今度橋本さんと会う機会があれば、そのことについて聞いてみたいものだ。
「黒羽根さんっ、来ちゃいました!
これが認定書なんです!」
「本当に素晴らしいことで、私も驚きですよ。
こちらがその認定書ですか・・・立派なものですね!」
橋本さんが、まるで子供のように認定書を見せてくる。
業務中ではあるが、なだめるのは気が引けて俺は一緒に喜んだ。
嬉しそうにしているんだから、今はこのままにしてあげるのがいいよな?
周囲にいた人や他の銀行員たちも、すごい!とか言いながら見ている。
最初はきっと些細なキッカケから始まったのではないかと思う。
それが何年もの時間を超えて、今はギネスに載ることが出来たんだ。
それって、すごいよな・・・すごいよな!
皆で、おめでとうございます!といってお祝いをすると、橋本さんは幸せそうに笑った。
「少しずつでもいいから、世界を変えていきたいな」
橋本さんは微笑みつつも真っ直ぐな眼をして言う。
大丈夫、この人は温かい気持ちを持っているから少しずつ変えることが出来るだろう。
まだ若いから色々なことに挑んでいってもらいたいし、俺も出来るだけ応援したい。
その数年後。
橋本さんの活動が世間の人々から共感を得るようになり、やがてその活動は日本を出て海外へと進出することになる。
他人とのつながりを改めて再確認し、その大切さを広めていく。
その影響力は強く、サイン帳リレーが始まり人種や国柄を超えてサインが増えていく。
大人だけではなくて、小さな子供たちの可愛らしいサインや力強いサインも加わって。
橋本さんを中心にして、温かな気持ちを持った人々が集まり、世界を変え始めていった。