毎日同じことを繰り返しているが、最近では少しずつ見方が変わってきたような気がするんだよな。
何がどう変わったのか、それははっきりわからない。
だけど、変わった人たちと関わってきたことで以前までなかった感情が芽生え始めてきたというか、昔の俺ではないような気がするんだ。
そんなことを思いながら、書類を片付けていく。
相変わらず銀行内には人が多くいて、窓口業務が大変そうだった。
ふと待合席の方を見てみると、椅子が空いているにもかかわらず壁際に立っている男性がいた。
お年寄りの人が座ると思って、座らないようにしているのだろうか?
先程からずっと立ちっぱなしだが、疲れていないだろうか・・・。
俺も窓口業務に加わり、番号を順番に呼んでいく。
何番か呼んだがたまに現れないことがある。
それは、待ち時間が長すぎてどこかへ出てしまっている人だと思う。
あっという間に番号を飛ばしてさばいていくと、壁際に立っていた男性がやってきた。
「あの、10万円だけ融資してほしいんですが」
「では、こちらの書類をお預かりいたします」
必要な書類には達筆な字で記入されていた。
普段、みんなが書き忘れることの多い項目までしっかり埋まっている。
すごい注意力の持ち主だな・・・歳は俺と変わらないくらいだ。
名前は“夏間佳樹”さんで職業は会社員。
確かにすごく真面目そうだし、冗談も通じなさそうな感じがする。
信用情報を確認したところ、以前にも融資を受けてしっかり返済されていたから今回の審査も大丈夫だ。
現金を用意して、夏間さんの前へ差し出す。
「ありがとうございます」
夏間さんはそう言って、ためらいながら札に触れる。
なんだ・・・寒くて震えているのか?
暖かくなるまでまだまだ時間がかかるから、仕方のないことかもしれない。
札を数えて、カバンの中へとしまっていく。
そのカバンの中身がちらりと見えて、俺は思わず驚いてしまった。
カバンの中には・・・何かのスプレーが何本か入っていたから。
業務用とかではなくて、何か別のスプレーが複数入れられていて俺は見入ってしまった。
その視線に夏間さんが気付いた。
「実は俺、ものすごいケッペキショウなんですよ。
だからいつもこうして、消臭除菌スプレーを持ち歩いているんです」
「ほとんどのものに触れられないんですか?」
「ええ、物もダメですし人間なんかもっと無理ですよ。
だって、手とか何触ったか分からないじゃないですか?」
言われてみればそうだな・・・潔癖症の人からすれば、あちこちが汚く感じるのかも。
潔癖症が酷い人はほとんど何も触らないと言うし、夏間さんもそうなんだ。
それだと何かと苦労することも多いのではないかと思う。
触れたり触れられたら除菌っていうのも、すごいよな・・・徹底している。
物に触れるよりも人間に触れる方が怖く感じるなんて、潔癖症ではない俺としては考えられない。
本当に色々な人がいるんだなと思う。
それで札を数える時に手が震えていたわけか。
こう見えて、俺はしっかり綺麗にしているんだけどな・・・。
「この10万円で、最新の空気清浄機をかうんです。
今度、会社の人達が来てしまうから」
「確かに、それはまた大変そうですね・・・。
今は家電もいいお値段しますから、お金がかかってしまいますね」
「そうなんですよ、憂鬱です・・・」
夏間さんはしょんぼりしながら言う。
給料日はまだ先だけど、予想外の出来事に融資してもらいに来たみたいだ。
潔癖症の人の家は、さぞかしきれいなんだろうな・・・。
大勢で来られたら、たまったもんじゃないかもしれない。
皆どこに触れるのか分からなくて、恐怖感も大きいのではないかと思う。
本当に憂鬱そうにしている。
潔癖症と言うのは、直らないものなんだろうか。
我慢する回数を少しずつ多くしていくのがいいと聞いたことがあるが、実際のところはよくわからないんだよな。
掃除したくてもその気持ちを我慢することで、少しずつ症状が良くなっていくと聞いたことがあるんだけど、本当なのか少し怪しいものだ。
「黒羽根さんは、平気なんですか?」
「ええ、私は案外平気ですが電車の手すりは嫌かもしれません」
「ですよね!!
電車の手すりなんか、俺絶対に掴みませんから!」
やはり、電車の手すりは触れないみたいだ。
潔癖症ではない俺が触れたくないと言ったくらいだから、潔癖症の人からすればすごく嫌なことなんじゃないかと思うんだ。
夏間さんも色々大変なんだな・・・俺はそんなに細かい性格ではないから助かった。
少しだけ話して、夏間さんが銀行から帰って行った。
街には沢山のものが溢れかえっているから、ただ歩くだけでも大変だと思う。
特に人混みや満員電車は身体が触れ合うから、相当嫌なんだろうな。
業務を終えた俺は、少しスーパーによってから帰ることにした。
たまには料理でも作ろうかと思って。
最近は弁当屋の弁当ばかり食べているから、さすがにまずいと思った。
このままじゃ健康でいられなくなってしまうような気がして。
スーパーで買い物をしていると、野菜コーナーに立っている夏間さんを見かけた。
あんなところに立ってどうしたんだろうか?
「夏間さんもお買い物ですか?」
「あ、そうなんですけど・・・野菜みんながどれを触ったかと思うと・・・。
怖くて選べないし触れなくて困っていたんですよ」
「野菜は家に帰ってから洗いますし、煮込んだり焼いたりすれば殺菌されますよ。
火を通せば汚れがほとんどなくなるから、大丈夫だと思いますよ」
俺はそう言って、ジャガイモと人参を手に取り夏間さんの籠の中へ入れた。
今日はカレーを作るらしいから。
カレーは最初に野菜を洗うしぐつぐつ煮込むから、きっとついている菌もなくなるんじゃないか。
俺がこまめに両手を除菌していることを夏間さんに言うと、すごく安堵したのか息を吐いた。
スーパーに置かれている野菜は、多くの人達が触っているだろうから確かに怖いよな。
でも、ここまでだと買い物するのも大変だ。
夏間さんの手には透明な手袋が装着されている。
すごい準備万端にしているな・・・よほど嫌だという事がよくわかった。
「夏間さん、普段お料理はどうされているんですか?」
「料理はやる前と途中と終わりに殺菌していますよ。
おかげで、手荒れが酷くって困っているんです」
確かに、今は冬だから空気が乾燥している。
ちゃんケアをしなければ、皮膚がカサカサになって痛くなってしまう。
女性だけではなくて、男性だってハンドクリームを塗った方がいいと思う。
俺は乾燥肌ではないから塗っていないが、何度も手を洗ったりする人やアルコール消毒をしている人は、なるべく手を清潔にしてハンドクリームを塗るべきだと思う。
もしかして、手に何か塗るのも嫌なんだろうか。
「ハンドクリームも嫌ですか?」
「ええ、なんかそういうのも許せなくって・・・。
めんどくさいですよね、俺って」
「そんなことありませんよ、清潔感は大事です。
ただ、ちょっとひどいかもしれませんが少しずつ努力してみるのはどうでしょう?」
「なるほど・・・少しずつ、か」
今すぐに出来なくても、少しずつ変えていけばいいんじゃないかな。
口で言うのは簡単だけど、行動するのは難しいことだ。
俺も力になれることがあれば、何か役に立ってあげたいな。
少し話して、俺たちは別れることにした。
あれから数週間が経ち、外は雪が降り始めた。
やっぱり12月よりも1月の方が降りやすいのだろうか。
子供たちは喜んで雪遊びをしている。
東京にしては積もった方じゃないかと思うから、子供たちも嬉しいのだろう。
ただ、東京はあまり雪が降らないため、雪を丸めるのも硬くするから痛い。
慣れていないから丸め方も分からないんだろうな。
あの後、夏間さんは空気清浄機を買ったんだろうか。
会社の人達が来ると言っていたけど、大丈夫だったのか心配になってしまう。
生きているといいんだけど・・・。
そう思った矢先の事だった。
あれ・・・銀行の外でスーツを着た男性が子供たちに捕まって、雪合戦が始まった。
あの後姿って・・・もしかして。
そう思いながら見ていると、夏間さんだった。
子供からあんなに触られて大丈夫なのか・・・?
「お兄ちゃん、えいっ」
「痛っ!」
「あはは」
子供たちに雪玉を投げられて痛そうにしている。
そう、あの雪玉・・・俺も去年やられたから知っているけど、本当に痛いんだ。
今年の餌食は夏間さんになってしまったようだ。
少し子供たちと戯れて、銀行にやってきた夏間さんはヘロヘロになっていた。
それでも楽しそうに子供たちと遊んでいる姿を見て、俺は笑ってしまった。
「夏間様、大変でしたね」
「ああ、でもすごく楽しかった。
痛かったけど」
「去年は私が同じことをされたので、分かります」
俺と夏間さんは一緒に笑った。
それから夏間さんが10万円を差し出してきた。
話を聞くと、やっぱり空気清浄機は勝ったらしいが今は少しだけにしているとか。
まだ潔癖症が直ったわけではないが、少しずつ我慢するようにしているらしい。
雪に触れたのも久々らしく、子供たちに触れられても平気だったと話している。
それって、大きな成長なんじゃないかと思う。
「黒羽根さんがアドバイスしてくれたおかげで、変わってきています。
昔は納得できなかったのに、あなたに言われると本当にそんな気がしてくる」
「私は何も・・・」
「会えてよかったです、本当に」
そう言って、夏間さんが銀行を後にした。
俺が何かしてあげられたとは思えないが、少しでも役に立っていたのなら嬉しい。
相手の欲しい言葉を与えるのは難しいし、相手のしてほしいことをするのも難しい。
だけど、応援して励ましたり勇気づけることくらいなら、俺でも出来る。
夏間さんが少しずつ自分の変化を感じているくらいだから、俺も少しずつ変わってきているのかな・・・?
少しずつでもいいから頑張れ、夏間さん。
俺も毎日仕事頑張るからさ、一緒に頑張っていこう。
受け取った金を金庫へと戻し、俺は業務を再開させた。
「528番の番号札をお持ちの方は、2番窓口へお越し下さいませ」
「はい、私です」
番号札を次から次へとさばいていく。
何だか、今日は気分がすっきりしていて仕事がしやすい。
それはやっぱり、夏間さんが潔癖症を少し克服してくれたからかもしれない。
その後、夏間さんがどうなったのかと言うと潔癖症を克服!とはいかないまでも、控えめになりやっと普通の生活が送れるようになったのだとか。
誰かに触れるとか触れられるとか、そう言ったことも大丈夫になって、苦労もだいぶ減ったらしい。
そんな夏間さんに可愛らしい彼女が出来て、結婚することになることを俺はつゆ知らず。
俺が二人の結婚を知るのは、もう少し先の事で仲人を任せられる時・・・